ontology.340(カンナヅキ一週目)
「最近のボク」 【↑やめて!写真は撮らないで!】 コバ・ジュンです。 相変わらず日記を書けていません。うは、今月たった7本とは…。これもすべてSNSで大体の書きたいこと書いちゃうからだー!なーんて別のもののせいにしたりして。 さて、最近のボクはこんなことしてます。 おでん作って、自家製の柚子胡椒でいただいたり 玄関先のラン(デンドロビウム)を植え替えたり、 個人的に地味ハロウィン「職質受けやすい人」をしてみたり 大好きな横山知子さんのミニライブを聴きに行ったり、 寒くて手袋を新調したはいいものの、今の自転車に付けてるライトのスイッチに反応しなかったり モツを味噌で煮込んでみたり 100円ローソンで買った干しほたるいかを食べてみたり あーなんだよコレ!ただの生活日記やんけ!もっとお知り合いの俳優さんみたいに「今日は撮影でした」とか「オーディション受かったよー」とか書きてえええええ! ま、そんな事言ってもしょうがないね。それが自分の実力だもの。そこまでだもの。そういうもんだぜ人生人生。 ただ、今夜はちょっと悲しい調べを弾き続けたい気分なのでありました。うう。 平成最後の10月も終わり! ではまた。
「かつてアポロ座という映画館があった」 【↑懐かしい思い出】 コバ・ジュンです。 かつて我が町には「アポロ座」という映画館がありました。場所は京浜急行「金沢八景」駅の目の前。国道16号線を挟んだそこに建つビルの中にありました。 今でこそシネコンなどで駆逐されてしまってはおりますが、当時(3~40年前)日本の地方都市などのどこにでもあった様な、そんな映画館。 特徴として「どんな映画でも上映すること」でした。少し前に流行った洋画から、封切したばかりの日本映画、子供向けのマンガまつり、そしてポルノ映画まで、よく言えば「何でも観られる」し、悪く言えば「節操がない」。でも町の映画館って、大体こんな感じだったと思います。 町のいたるところに、今度来る映画(この言い方も懐かしいなあ)の宣伝ポスターが貼られ、子供だったボクたちはそれを見て一喜一憂したものです。もちろんポルノの場合は活字タイトルのみでしたけど、にしても通学路に「昼下がり、若妻のよろめき」とか貼られていたことを思うと、昭和って寛大な時代だったのだなあと感じます。 そこで初めて見たのが何だったかは覚えていませんが、親に連れられて「寅さん」はよく行きましたね。子供でも分かりやすい楽しいシーンの数々、ドタバタした人情劇に憧れたものです。実際にあんな家庭はもちろんご遠慮させていただきますけど(笑) 「寅さん」で思い出したのですが、ボクが見始めた頃の作品からは、OPが必ず寅さんの夢から始まっていた様な気がします。観客もそれを分かって楽しんでいて、にやにやしながら見ていましたね。中でも秀逸だったのが、「とらや」の面々が実は宇宙人だったという話。あの前田吟さんや倍賞千恵子さんが全身タイツを着て、「おにいちゃん、あたし達そろそろ宇宙に帰らなければならないの」なんてのがあり…。記憶違いだったらごめんなさい、もしかしたら寅さんが宇宙人だったかもです。もしこのOPで始まる作品が分かる方がいたら、ぜひ教えてくださいませ。 余談:家にある資料を調べていたら、実にタイムリーなものが出て来てしまいました。この共演が縁でご結婚されたのかな? 「東映まんがまつり」では、子供達みんなが劇場で配られるあの厚紙で出来た帽子をかぶって観ていました。正にそういった「まつり」感が最高で、見終わってから家に帰るまでもずっと被っていた記憶があります。「ヤッターマン」とかやっていた記憶があります。メインは「ドラえもん」かな? そうそう、忘れてはならないもうひとつの特徴として「同時上映」があげられます。ひとつの映画館で、時間帯によって違う映画をやる、というアレです。これは今でもあるのかな?松竹系は多いか。 で、アポロ座はこの同時上映までもが「節操がなく」(笑)、「寅さん」の次に上映したのが「スネーキーモンキー/蛇拳」ですよ。そう、ジャッキー・チェンの。この宣伝ポスターが子供心にまた面白そうで面白そうで…。 母親と見に行った寅さんの後、すぐさまこれが始まったのですが、開始10分くらいで連れ帰らされてしまいました。別の日に父親が「両方とも観て来た」と言い、感想を聞いたのですが「箸でハエを捕まえるんだよ」とか、話の大元ではなくディティールだけで、お前は何を観て来たんだと(笑)。今思えば子供に分かりやすく伝えてくれたのかもしれないのですけどね。 無理矢理母親に連れて行かれたものもあります。その代表作として「天平の甍」。知ってます?どんな話かと言いますと、遣唐使が苦労して大陸に渡り、高僧を招くという内容。小学生に分かる訳ねーだろ!(笑)終始寝てました。 もうひとつは「あゝ野麦峠」。こちらは有名ですね。大竹しのぶさん主演の日本映画。大人になってから観て何ていう感動作なのだろうと涙しましたが、こちらも小学生だった当時はわかりません。一緒に連れられて行った悪ガキと、上映中に館内を走り回って遊んだりしたため、観客で来ていた白髪のオヤジ(今でも顔を覚えている)に、終演後とっ捕まりこっぴどく怒られたのを思い出します。母上、そんなボクらを注意してくれよ(苦笑)。あとはモロボシダンが悪役だったこと。空腹のあまり石を食べて死んだ太っちょの女工。製糸工場のあまりの臭いに、見学に来られていた殿下がお吐きになったこと(今検索したら、殿下を演じていたのは平田昭彦さんだった!特撮の博士役などでおなじみ)。 高倉健さん、倍賞千恵子さん出演の「遥かなる山の呼び声」も覚えています。この時は母、ボク、姉、姉の友人の四人で行ったのですが、姉の友人が終演後からずっと泣いていて、その後食事に行った席でも涙が止まらず、なんだかおかしな雰囲気になってしまったことも。 「刑事物語」も観に行きました。武田鉄矢さん主演のシリーズ物です。たぶん二作目の「りんごの詩」だったと思われるのですが、子供には刺激的なえってぃなシーンが多く、同じくその映画を観に行っていた同級生のNちゃん(♀)に「エロかったよね!」とか話しかけられ、シャイなボクは顔を赤くしながら、固くなった下半身を「これなんだろう?」と(以下略 最近youtubeやAmazonプライムなどで「寅さん」を見返していたら、ふとこんな日記を書きたくなりました。思えば、そんなアポロ座の他にも、母にはたくさんの映画に連れて行かれたのを思い出します。よく行ったのは、JR根岸線の関内駅そばの東宝会館、或いは京急日ノ出町駅そばの横浜ピカデリー他。あの辺りは映画館がたくさんあったのです。当時話題の「ガンダム」も一緒に行きました。なぜか母がドズル・ザビの「なめるなよ!」というセリフに大爆笑していたのを思い出します。 他にも、幼い子を持ちながら父であるボクサーが奮闘する姿を描いた「チャンプ」、ラストシーンでは小学生なのに泣いてしまいました。さらには、離婚した夫婦の親権裁判を描く「クレイマー・クレイマー」、今見たらこれも泣けるんだろうなあ。ダスティン・ホフマンつながりで「トッツィー」も観に行ったなあ。 あれれ、こう考えたら、父と映画に行った記憶がほとんどありません。ひとつだけ覚えているのは、家族四人で観に行った「南極物語」。人生で初の、そして最後の立ち見した映画です。「子供が立ち見なんかして」と思われるかもしれませんが、それでも面白かったので、当時の日本映画がいかに大作だったかということでしょう。父との映画の思い出はこれくらいしかないなあ。まぁ出不精だったものなあ。 長くなりましたが、最後に大オチ。 松田聖子さん主演の映画で「プルメリアの伝説」というのがありまして、これのロケ地がなんと「アポロ座」のある金沢八景だったんですね〜。なぜこんな田舎の何にもない町がロケ地に選ばれたのかは知りませんが、当時は大フィーバーでしたよ。近所の大人たちも浮き足立って「今日、八景駅に聖子ちゃんいたって!」「パン屋の二階でロケしたらしいよ!」「駅で切符買ってたって!」「でももう帰っちゃったってさ」 小さな町が完全なお祭り状態。そりゃそうですよ、あの松田聖子です。人気絶頂の頃です。そんな芸能人がおらが町にやってくる! 結局「帰っちゃったってさ」というのは大嘘で、その夜のTBS「ザ・ベストテン」の生中継で、今もある弁天島から歌って出演しましたけどね。小学生ながらもどれだけ「ぐぎぎ」としたものか。 そして無事にクランクアップしたその映画は、ちゃんと後日アポロ座にて上映されまして、ボクも観に行きました。共演は中井貴一さん。キスシーンもあったことを記憶しています。そして「あれ、この下半身は何(以下略 長くなってしまいました。ここまでお読み頂きありがとうございます。なぜ今こんな内容の日記を書こうと思ったかは自分でもまったく分からないのですが(過去と重複している箇所も多数)、なんとなくこういう記憶を残すことによって、亡くなった父母の供養になるのかなとでも、心のどこかで思ったのかもしれません。 次回は、「ボクがひとりで行った映画特集!」を予定しています。 ではまた。
「決定版!これがコバ・ジュン流「柚子胡椒」の作り方!」 【↑あと5日寝かせるんだぜ!】 コバ・ジュンです。 先日、暇な時間を見つけて、ご近所さんより頂いた柚子を使って「柚子胡椒」を自作してみました。 「え!?柚子胡椒って自宅で出来るの!?」 はい、出来るのですよ。では愛と料理の伝道師コバ・ジュンが、手取り足取り独身アラサーアラフォーのシングルなあなた、人妻のあなたにお教えいたしましょう。 用意するもの 材料: 青柚子 10個 青唐辛子 100〜300g 塩 30〜100gくらい 器具: 包丁 ミキサー 擦り下ろし器 あった方がいいもの: メガネ(orゴーグルなど、目を守るもの) マスク ビニール手袋 ちなみにボクはこの装備で行きました。 では早速調理に行ってみましょうかね! 1.材料を丁寧に洗います 青柚子と唐辛子類を丁寧に流水で洗って行きます。柚子10個に対して青唐辛子300gなんて某クックパッドに書いてありましたが、お好みでどうぞ。ボクは青唐辛子以外にベトナム産の辛いのも買って、唐辛子類は計100gで作ってみました。 2.柚子の皮を剥いていきます そんなに難しい行程ではないです。いつものリンゴなどを剥く様に、旦那様のを剥くと同様に、包丁を使ってゆっくりとあせらず綺麗に剥きましょう。刃の角度が身に深過ぎると剥きにくいので注意してください。 余った柚子の果肉はあとで使うので、大事に取っておいてください。 3.変顔をします ここで顔の筋肉をほぐしておかないと、後々の行程に関わってきますので、絶対に忘れないでください。「柚子の皮を剥いたら変顔」です。もう一回言っておきますね。「柚子の皮を剥いたら変顔」です。 4.剥いた柚子の皮を摩り下ろします 柚子の皮を摩り下ろし器で擦っていくのですが、これが案外難しい。なので出来ない場合はとりあえずみじん切りにしておいてください。あとでミキサーでなんとかなるので。それでも摩り下ろしたい場合は、頑張ると良いんじゃないかな。 5.青唐辛子のヘタを切り、種を取っていきます はい、やって来ました。ここが柚子胡椒を作る上での最難関。必ず目を守るもの、鼻と口を守るもの、そして手を守るものを装着してくださいね。でないととんでもないことになりますよ。後述しますけどね(伏線)。ヘタを取った後は、中の種を丁寧にこそぎ取っていきます。ここまで来たらもう出来たも同然ですよ。頑張れアラサー、アラフォー。 6.へそで茶を沸かします 九州には「黒じょか」と言って、焼酎をそのまま沸かして飲む文化があります。ここでは茶ではなく、黒じょかを使い焼酎を沸かしてみましょう。そうですね、芋焼酎あたりが最適ですよ。個人的に好きなのは霧島系列。中でも黒霧島はそこまで値段がしない上にまろやかで梅お湯割とか最高ですようへへ。ちょっと乳首が見えちゃってますね。どうですかお客さん。 7.乳児期の写真をupします 乳首を見せてしまったなら、「俺の全てを見せてやる」なジュリーさながら、全てを見せなきゃやっていられませんよね。ちんちん見えてしまってますが、そこは気になさらないでください。隣りは6歳年上の姉です。ちんちん見えてますが、そこは気になさらないでください。実はこれも伏線です。 8.唐辛子を細かく切っていきます 種を取った唐辛子を、細かく切っていきます。ゲホンゲホン!この行程、本当に危険ですので、必ず防備をしてくださいね。後から「コバ・ジュンが嘘ついた!」とか言われても責任取りませんよ!ゲホゲホン! 9.一旦休みます ここいらで読書はいかがでしょう。我が家は築50年近いボロ屋なので、汚くはありますが、歴史的資料は案外多かったりします。三島、芥川、太宰等々、文豪の作品が数多く眠っていたりもするのです。我が家に宿泊した人は皆「俺って、猫だったのかな…」と感化されて帰っていったりしますからね(その後は知りません) 10.すべてをミキサーにかけます みじんぎりにした柚子皮、青唐辛子をミキサーにかけます。水分が足りなくてミキサーが上手く回転しない場合でもご安心あれ。先ほど剥いた柚子の果肉があるではないですか。ミキサーがスムーズに回るまで、果肉を絞ってみてください。適量は3〜5個くらいでいけるはずです。残った果肉は、柚子湯だったりお酒に入れてみたりするのも良いですよ。 11.一旦お風呂に入ります 柚子胡椒を作る際には、身も心も清めねばなりません。「どうかこの苦労が一〜二年先まで腐らず持ちます様に」との思いをこめて、体をすっきり洗い流しましょう。ボクはこれによって、凄く良い匂いになりましたし、ついでに浴場の清掃と洗濯まで済ませてしまいました。柚子胡椒を作っていなければ、こうはならなかったと思われます。凄いですよね柚子胡椒。 12.出来たものを寝かせます ミキサーで練ったものを瓶詰めにして、一週間程度寝かせて出来上がりです。塩分が高ければ高いほど保ちがよいので、血圧に心配がない場合はどっさり入れてしまってください。全体の分量に対して30%が適量だそうです。コバ・ジュンは高血圧なので、大さじ三杯の45gで作りました。でもこれでも十分保存は効くと思われます。 13.出来た記念に写真を撮ります これだけの手間をかけてようやく出来た「柚子胡椒」 一年以上は持ってくれるのでそれだけが嬉しみですね。酒飲みにはたまらない調味料なのです。しかも結構な量が出来てしまったし。柚子を頂いたTさんには本当に感謝です。目ェつぶっちゃってるけどね。 そんなこんなのコバ・ジュン柚子胡椒レシピでした。皆様も「参考にして」ぜひ作ってみてくださいね! ではまた。
「しゃアない節」 【↑といって、酒を飲んで良い言い訳にはならない】 コバ・ジュンです。 桑田佳祐さんの曲に「しゃアない節」というものがあります。1994年に発売されたアルバム『孤独の太陽』(名盤!)に収録されております。 時は太平洋戦争時でしょうか。好きな子への「さよなら」や、いつも行ってたラーメン屋のオヤジに「ありがとう」の挨拶も出来ぬまま、徴兵に取られる男の悲哀を、厭世観を保ちつつ、どこか牧歌的に歌った楽曲です。 「しゃアない、それが人生だもの。そういった人生だもの、しょうがない」 そして男は、戦地なのかな?そこでこう言われます。 「さあ、武器を持て」 「さあ、若者よ人を撃て」 しゃアない、日本に、此の時代に生まれてしまったのだもの。しゃアない。人生のブルース。しゃアない節よ。 今朝方、この歌が妙に頭にこびりついて離れず、ずっとリピートしておりました。別に今の政治やらに結びつける気は毛頭ないのですが、タイトルや歌詞に登場する「しゃアない」という単語に惹かれてしまったのです。 諦観でしょうか。しゃアない、今自分がこんな現状なのもしゃアない。 段々と寒くなるに連れ、毎年の様にこんなことを思ってしまうボクなのでした。秋はそんな季節。オジサンでもおセンチになってしまう季節。失恋ばかりしてきた秋だもの。 「こうして愛は ため息に変わるだろう」 ではまた。
「文字が怖い、文章が怖い」 【↑羅列がイヤで】 コバ・ジュンです。 「目は口ほどにものをいう」 日本のことわざです。今更意味を説明するまでもありませんが、言葉を使うよりも表情、特に目のそれによって、相手に不快な思いをさせてしまうなどの意でしょうか。 ボクは最近、これが「文字は直接話すよりも『もの』をいう」に置き換えても通ずる気がして。特に誤解を生んでしまう面で。 昨今、SNSなどの文化の発達により、人間関係のスピードがものすごく早くなっている印象を受けます。少し前まではメールでした。今から20年くらい前かな、メール文化が台頭してきたのは。それまでは直接顔を合わせて話すか、電話、もしくは時間はかかりますが手紙でしたよね。 それが今や、手先でピコピコと打って「あらよ!」と送信すれば相手に届いてしまいます。普段会ったら絶対言わないようなことでも話せちゃったりして。 これにより、「人と人」との関係を構築する速度が加速し、良い意味で簡単に進み、悪い意味で簡単に壊れてしまうこともあり。 ボクが学生だった頃は、例えば彼女との連絡手段は「電話」しかありませんでした。家族が出ない時間帯に電話をしたものの、たまたまお父さん(休みだったよバカヤロウ)が出ちゃったりして、ガチャ切りでも良いのですが、クソ真面目に「あ、あ、あの、高校の同級だったものです、は、は、花子さん(仮名)はござござご在宅でしょうか」なんて。 直接で良いことももちろんたくさんあります。まず話が早い。駅の伝言板に「遅れる XYZ」とか書かなくてもLINEで一発「今家出た」と送れば済んでしまいます(いや待て。遅れる側が書けるってどないな状況やねん。余談!)。例え怒られたとしても、電車から「今渋谷過ぎた」「そう。じゃあ靖国通りの店に入ってる」「了解」なんて通信により、ギスギスが少しは緩和されたり(もちろん逆パターンもあるぜ)。 ただ、やはりどちらかというと「関係性が壊れる」ことの方が多い気がします。ボクなどは特に「余計なひとこと」を送ってしまったりするので、その傾向がかなり強く、しかもそれに気付いていなかったりするというタチの悪さもあるので、相手に不快感を与えてしまう事の方が多いのですよね。「話が早い」のは良いのですが、「関係が壊れる」という速さも同居しているのがSNSの怖さ、つまり使う人間側の未熟さにより「壊さなくても良かった仲が、意図していなかったところで壊れてしまう怖さ」なのです。 「僕の小規模な生活」や「ウチの妻ってどうでしょう?」で知られる漫画家、福満しげゆきさんが、こんな内容の漫画を書いていました↓ "エッセイ漫画を書く際、相手の感情を絵で表現するのは、明らかに自分に向かって『そういった感情』を出している時に限られる。例えば『怒っている』時はそういった記号を相手の絵に乗せるが、『あせっている』際の汗などは、相手の感情がそうとは限らないので、それは書かない" 正にその通りで、相手の返信の文脈からは読み取れない時は多々としてあるのです。もしかしたら冗談でこちらに送っているのかもしれないけど、「怒っていますよ!」というのと「怒っていますよ!(笑)」では180°違いますよね、こちらが受け取る印象は。 こちらが冗談で送っていたら、相手が激ギレなんてのはしょっちゅうです。そこはこちらが空気を読めていないのでしょうし、反して「え、なんでこんなにキレてるの?」と思う事もあったりします。 ちょっと「文字が怖い」です。自分の意図していることが伝わらないという怖さ。受け取る側の理解の無さに驚くこともあれば、自分の「理解力の無さ伝達力の無さ」にダメさ加減を感じることも多く。文筆業、批評家、知識人と呼ばれる方々は、日々多くの文を読んだり書いたりしているわけでして、そのスタミナと精神力の強靭さに脱帽します。 楽しく過ごしたかったのに、自分のせいで壊れる、それもたまたま送ってしまった拙い文章のせいで。「そういう関係であるなら、元々それまでの関係」と言われたらそれまでなのですが、何だか悲しいですし、誤解を解きたい未熟な自分がここにいたりします。 コバ・ジュンダイエット、良い感じで進んでいます。でもあと5日で3kg落とすのはきびぃかなあ。 ではまた。
「久々の江ノ島〜鎌倉、そしてアラドーモ」 【↑空いている朝の八幡宮】 コバ・ジュンです。 先日のこと。妙に寝付けず、体が運動を欲している…。というわけで、夜中にゴソゴソと起き出し、ジャージに着替えてチャリ走行ってきました。特に「どこへ」という訳でもなく、走り出すまま気の向くまま。ならば海沿いを走りながら、鎌倉、よし、江ノ島まで行ってしまえ!となりまして、逗子を抜けてR134を西へと走らすことにしたのです。 以前は良くこのコースを走っていたのですが、久々に走ると「こんな道だったっけ?思ったより距離も長いし」感を強く思いましたね。滑川交差点から稲村ケ崎までの遠いこと、さらにそこから江ノ電の鎌倉高校駅前を抜け江ノ島までも遠いこと。 ようやく江ノ島に辿り着いたは良いものの、まだ日も昇らず何の景色も撮れず。即Uターンし、八幡宮の参道を目指して帰りのルートをひた走りました。R134、少し広くなってましたね。とはいえ、まだまだ自転車で車道は怖い。途中から歩道にしました。みんな飛ばすんだもの…。 R134から滑川の交差点を経て、八幡宮参道→鎌倉霊園→朝比奈峠と走りました。世界的な観光地をここまで気楽に走れるという贅沢さに酔いしれると共に、峠を越える辛さも思い知りまして。もうちょっと楽な行程なら、毎日でも行くのだけどなあ。 その日の夜は下北沢へ。あれー、何と変わってしまったの駅の出口そして街並み。 「どこを出ても見知った街、関係ないだろう」と思っていたら大失敗。変なとこに出てしまって、スズナリへの道すら不明になってしまう顛末。無事「劇小」を見つけたので何とかなりましたが、駅前劇場が「駅前」じゃなくなってしまっていたのには驚きました。庭だった頃のシモキタはどこへやら… 下北沢CIRCUSにて、「タマーニャルアラドーモ」のライブ。Vn.磯部舞子さん、A.sax.岡村トモ子さん、B.宮坂洋生さんの三人編成。東欧を意識した大好きな音。一曲目が大好きな「オデッサブルガリッシュ」。前世は西欧の貧しい靴職人だったので、次はルーマニアとかに生まれたい。 お知り合いから「コバ・ジュンさんが写ってました!」との写真を頂く。あれれ〜、写ってますねえうひょひょ。それは良いとして、なんだよこの締まりのない顔! ふはあ、俺はいつもこんな顔でライブを見ていたのか最悪やんか。エロエロ大集合のおっさんやんかこんなん。自分では「シュッとした体型で、シュッとした表情で、シュッとした聴き方をしている、少し格好良いオジサン」を演じていたつもりだったのになあ!ダメダメだった!昔から自分の笑顔があまり好きではないのですが、歴代彼女には「笑顔が好き」とか言われ続けてきて、でもやっぱりこれはダメだろ。酷過ぎるですバブー。 見た瞬間に、頭に思い浮かんだ画像がコレ↓ 「お嬢さん、ぐぇへへへへ」 とヨダレを垂らし、この後独房でいろいろするゲフゲフン!であろう力石徹でございます。だらしねえ。ホントだらしねえ。俺はこんなだったのか。そもそも力石ってこんなエロな奴だったのか。白木ジムであれだけ減量に苦しんだ姿はどこへ行ってしまったのか。 力石は通常がウェルター級、しかしそこから二回級落としたバンタム級で勝負しました。減量した上でのウェルターから、さらに10kg以上も落とすバンタムでジョーと試合したわけです。じゃあボクもバンタムまで落とさなイカンとなるじゃないですか。頑張らなきゃ! ちなみに現在は、ウェルターよりもさらに重いミドル級であります。あと一週間で4階級を落とす!…無理か。 ではまた。
「暑かったなあ(先日の撮影裏話など)」 【↑涼しい顔をしていますが、汗だくでした】 コバ・ジュンです。 大型の台風24号は、またしても日本各地に大きな爪痕を残していきました。我が家も強風のため揺れに揺れ、まんじりともしない夜を過ごしました。まぁ寝たけど。 翌朝、家の周りの被害を確かめます。幸い大きな被害はなかったです。 縁台が吹っ飛んだくらいで。 直す気力も体力もすでになく、というか木が腐っているので釘もかからないため、とりあえず飛んだ板を戻すという作業だけしました。 今年は本当に災害の当たり年。願わくば、どうかこのまま年末まで何も起こらず平成最後の年にしたいものです。平成という元号で30年間過ごした身にとっては、全然「平成」じゃなかったですね。といって、戦争があった明治大正昭和に比べたら全然マシなのでしょう。 さて、話は変わります。 今年の夏、猛暑の時期に撮影を行いましたお仕事が、この度upされましたのでご報告をいたします。 今回は「日本調理器」さんにお世話になりました。日本調理器さんというのは、「官公庁や学校、そして病院などで食べられている食事を作る大型の機材」、それらを作成している会社です。皆様も一度はお世話になったことがあるかもしれません。 撮影1日目は栃木県内の工場だったのですが、作られている大きな釜や鍋、それらには納品先の貼り紙があり、それはもう全国津々浦々、自分の住んでいる場所に近いところもあったりして、嬉しかったりもしました。 「現場が遠かった!」というのは前にも書いたと思いますのでそれ以外のことを。この日はボクともう一人の俳優さんである「海老根 理(えびね おさむ)」さんと組んで撮影が行われました。皆様もご記憶にあるでしょうが、今年の夏は連日35℃を超える猛暑日が続きましたよね。まさにそんな最中での撮影でした。場所は大きな工場の中。といっても冷房などはなく、大型の扇風機が回っていて、そして水分は大量に用意してある、という現場でした。学校の体育館を思い浮かべてもらえたら良いかもしれません。 衣裳に着替えます。ボクは工場の人の役なので、用意された作業着や安全靴を装備。しかし海老根さんはスーツです。「この暑い中!?」と思うも、凄いなあと思ったのは、汗をかいてる姿をついぞ見ませんでした。ボクなどは絶えず拭いていないと衣裳が汗染みだらけになってしまうというのに。映像の現場ではよく「汗をかくな!」と言われたりしますが、こういうところでも差を感じてしまいます。 海老根さんとのカットでは、監督に「これこれこういう絵が撮りたい」という指示をいただいた以外、すべてアドリブセリフで対応しました。といって、二人で相談する事はほとんどなく、撮影前の「ボク適当なこと言いますね」だけで分かり合えるという、「ああ、こういう現場大好き」な感じに進んでいきます。 工場内が動かない「昼休み」最中の撮影でありましたが、多少こぼれてしまったのか、少しだけ迷惑をかけてしまった感がありながらも、1日目はなんとか終了。スタッフさんに駅まで送って頂くも、次の電車が30分後だったので、近場のコンビニでビールを買って軽く打ち上げ。もちろん炎天下。早々と駅に避難したのでありました。その後海老根さんは「宇都宮ギョウザを食べに行く!」とお別れしましたが、「若いって良いなあ…」としみじみ思ったものです。 二日目の撮影は、我が家からほど近い場所。ボクメインは1カットのみだったので、ほぼ待機。でも撮影から帰ってくる共演者さんの楽しそうな笑顔を見て、ずっと癒されていました。 そんな感じのとても素敵な現場。楽しかったなあ。時間の制約があったにせよ、スタッフさん皆様がとても感じがよく、サクサクと撮影が進むと共に、完成品は本当に素晴らしくて。 日本調理器さんのサイトはコチラ↓ http://www.nitcho.co.jp/ ページ下部の「歴史と実績」にある動画からご覧頂けますので、よかったらぜひ観てみてくださいね。 ではまた。